横から見てみる実験場

思ったことを書く練習の場です。

脳と偏り。

男性と女性では頭の働き方が違うというのはよく聞きます。

私はこれを「男性と女性では統計的に傾向に差異がある」という点では認めているのですが、先天的に異なるかは不明、という立場をとっています。これだけ男女で扱いによきにつけ悪しきにつけ違いのある世の中で、環境側面を無視することはできない、という考えです。

 

よく言われる中に、女性の方がマルチタスクが得意、男性は頭の中がパーテーションで切り分けられている、というのがあるかと思います。

私は、感情をかき乱されること(悲しい、不安、怒りなど)があっても別のことにのめり込めば忘れられる男性的な頭の使い方を芯からうらやましくなるタイプです。

 

だからこそ、最近もやっとしたものに、「女性はマルチタスクが得意でいいですね!」と言った口で、両性に対して「マインドワンダリング(過去のことにとらわれて感情が乱れている状態)の回避のために没頭することを勧める」というダブルスタンダードを取った作者の本があります。

マルチタスクが得意=パーテーション分けをせず処理している、という有意差を認めた上で、マルチタスクが得意な人と言われる女性脳が苦手とするパーテーション分けを一律押し付けて問題解決としている姿勢に、手抜き感をぬぐえませんでした。

「いやいや、それができないから苦労してるのよ???」という。美味しいものを食べていたって悲しい気持ちも辛い気持ちも波のようにぐちゃぐちゃにやってくる、むしろ、「こんな気持ちの時になにをしているんだ」とむなしくなってしまう、そういうのを止める方法を私は知りたかったわけです。

期待してその章を読み進めていたので、より一層がっかりでした。


もっと言えば、一般的に女性の方が過去のことを蒸し返して相手を責めがち(「あの時もああだった!」など)で、男性にとっては「終わったこと」を引きあに出してくるのは、「過去のことに今傷ついているから」という話があります。

いつのことだって、その記憶は今もその人を傷つけている、という状況です。想像力、共感力が強い(母親としてノンバーバルコミュニケーションを求められてきたゆえの差と言われています)ために、過去の出来事を反芻させるだけでも、「今」の自分にダメージを受けてしまう、という。

そういうことを思えば、こういったことの多い女性脳にとっては、過去が原因であるというのは変わりませんが、今の今もどうしようもなく傷つけられているという点からマインドワンダリングと言ってしまうのも違うのではないか…と思ったわけなのでした。

 

正直、傷つき続けているのは不毛だと思います。

だからこそ、没頭することができない脳の仕組みに向けて、もっと別のアプローチ(ディソシエーションをはじめとする客観視型の取り組み方など)を知りたかったなぁと思ってしまいました。

ひとりで三人。

三つ子をワンオペで育てていたお母さんが、お子さんの一人を殺してしまった事件。

判決が出ましたね。

すぐに執行猶予つきを求める署名に参加しました。

 

ひとりで一人のお子さんと向き合うだけでも産後うつになるのに、ひとりで三人なんて想像を絶します。

睡眠時間は一時間。どんなに激務のブラック企業に勤めていたってもっと眠れます。

しかもブラック企業は逃げられる。育児は(少なくとも今の社会では)逃げ場がない。父親は逃げることができても、母親は絶対逃げさせない圧がある。

本当に、今をもってしても苦しまれているものと思われて、心が痛みます。

 

 

ひとりひとりが寛容になる、そのトリガーになってほしいと強く願うばかりです。

家事をする人。あるいはモノ。

 家事ネタが続く。

 家事にも時給が発生するものという認識は、ガッキーのかわいさ(=「逃げ恥」)により世に広まっていると認識していますが、それに無頓着に「年収低い方が家事やれ」が未だに振りかざされていますね。キミらはほんとに「逃げ恥」見てたん? ただガッキーの笑顔だけ見とって筋書なーんも知らんかったん? と突っ込みたくなりますが、あるいは日々の仕事が大変すぎてガッキーの癒しの笑顔以外は忘却の彼方なだけかもしれませんね。

 本線に戻して、家事労働にも時給が発生すると考えた場合、その上で年収を算出する必要があります。そうすると、一部(あるいはある程度?)のパートナーシップでは、拮抗または逆転現象という意外な結果になるのではないでしょうか。

 

 個人的には、「人間は人間にしかできない情緒的な部分をやろう。家事はなるたけ便利家電とかで」派です。相手に家事押し付けるだけ稼いでるならそれくらい買えるよね? という考え方になります。

 なぜこんなに時産家電推しかと言えば、自分がその恩恵に浴しているからです。最近は落ち着いたとはいえ、ひとり暮らしスタートと時を同じくして仕事が激務化し、5か月連続で時間外が80時間前後をうろうろしていたとき(過労死間近)、メンタルはやられ産業医面談にて転職を勧められていましたが、それでも生活がなんとかなってたのは、時産家電たちのおかげでした。

 

 全自動洗濯乾燥機(ドラム式)が放り込むだけで洗濯ものを週2でさばいてくれて。

 ヘルシオ(オーブン)が毎朝モーニングセット(8枚切り食パン2枚+ベーコンエッ)を身づくろいする間に作ってくれて。

 その横でロボット掃除機(mini neo 7000円くらいで購入)が毎朝お掃除してくれていた。

 この子たちがいなければ発狂していました。

 

 だからこそ、「パートナーシップを組むことでひとりが2人分の家事をするのは単純に理不尽だよね?」という感覚があるのです。

 自分ができないのを相手にお願いするなら金で解決できることは解決して当然。

 ひとりだったら回らないから金で解決したでしょ? そこを、なんでやってくれる人ができた瞬間、金を惜しむの? 家事してもらうために結婚したんじゃないでしょ? その人の幸せに自分も関わりたいから結婚したんでしょ? その人の幸せを率先して打ち砕いてどうなるの?

 と思ってしまうわけです。

 

 7000円くらい、飲み会を2回我慢すれば手が届くし、楽できる人は罪悪感なく楽できるようになればいいなぁと思います。

家事分担に思う。

 共働き夫婦の家事分担でもめたときによく耳にするのが、「収入額少ない方が多く担うべき」という主張です。「収入が多い」=「仕事が大変」という理論ですね。

 一見、ロジカルに見えるので結構使われることが多いみたいですが、家事分担を多く担っている側が納得していないことも多く私自身ももやっとしていたので、なんでか考えてみました。

 そうしたら見えてきたのが、「パートナーと年収の多寡を比べるのは無意味」という点です。

 

 家事の総量はおおよそどの世帯でも一緒ですが、世帯年収やお金の使い方にはばらつきがあります。
 総量の変わらない家事分担を自分とパートナーで負担するものとして考えると、今のとこと自分の家事を減らそうとする人は「年収の多寡が~」という主張に行きつくことが多いようです。ここで踏み込んでほしいのは、「自分の方が年収が高い」と言っている人が「その収入で、パートナーが行う家事をどれくらい減らせているか」という視点です。

 食器洗い乾燥機は投入しましたか?

 全自動洗濯乾燥機は?

 ロボット掃除機は?

 家事代行は?

 ヘルシオ(ウォーターオーブン/ホットクック)は?

 家事を多く担っている側がこれらの投入を求めたときに、「そういうのを使うのは怠慢だ、言い訳だ」とか「金銭的に無理だ」というなら、家事分担が少ない方がその肉体を使って家事を行う以外に手はありません。

 繰り返しますが、家事の総量はどの世帯でもそう変わりませんし、人間のリソースも決まっています。あとはお金だけです。

 自分・パートナー・その他支援(時産家電や家事代行)の三者で分担すると考えれば、分担が平等でなくパートナーが不満をためているという状態にあったら、「年収の多寡をパートナーと競って自分が勝っているからやらなくていい」という言い分は成り立たない、そう感じます。

 逆に、自分がやりたくないのなら、惜しまず時産家電や支援を投入すればいいのです。

 

 私は独り身で、全自動洗濯乾燥機とロボット掃除機がなければ一時期生活が成り立たなかったくらい多忙だった時期があります。

 一人分の家事でもそんな状態だったのに、これが二人やそれ以上となればその負担は想像するだけでぞっとします。

 お互い好き合ってパートナーシップを組んで共同生活をしているのだから、家事支援を怠惰とみなすのではなくQOLを上げるためのものとして積極的に活用する人がどんどん増えていくことを祈っています。

うまいこと目をそらせない日。

私は大変なネガティブ人間です。さらには些細なことや他人からの評価が気になる小心者です。

しかし一方で、ネガティブになったり変な考えに陥った時、「人生生きるしかないんだから、しょぼくれて過ごすより楽しいことに目を向けよう」という信念のもと、ありとあらゆる手を使って気持ちを切り替えようとするタイプです。

 

それが今日はなかなかうまくいきませんでした。

楽しいことを見つけて目を向けようとしてもうまくいかず。

「このまま家にいても絶対気分は変わらないからどこかへ行こう、でも行きたい場所がない」と動けず。

それでも何とか外出用に身づくろいをしてコンタクト(ワンデー)を入れたら、なんだか違和感があり。

外出して、いい気分になろうと昨日転送した音楽をウォークマンで再生しようとしたら、昨日転送した曲どころか最近のデータが反映されていなくて。

仕方なくそのまま出発し、とりあえずなにか興味を惹かれる本でも探そうと図書館に行くも、入ってすぐ目の違和感を無視できず、結局確認したらコンタクトが破れており。

家に戻って眼鏡を装着し、ウォークマンに曲を入れなおそうとしたら、プレイリストを転送しようとしたら、プレイリストにある曲が片端からウォークマンから削除されるという現象に見舞われ(これ本当に原因不明)。

 

なかなかついていない午前中で、気分の切り替えがうまいこといかない感じでした。

それでも午後にはいい本とも出会えて、目線のシフトができた気がします。

そして、こんな日もあるし、こういう自分を忘れないのも大事だな、と思いました。

今、「黒塗りメイク議論」が起きて起きてよかった。

news.nicovideo.jp

 

「笑ってはいけない」、なにかと話題になっていますね。

私はずーっと紅白を見ていた人なので知りませんでしたが、よく話題に上がっているところだと、「黒人のコスプレ」と「暴力」、この二つで笑いを取ったところ。

人権後進国であることを露呈している」と言う人がいたり、「日本に差別の文化はないし暴力って言ってもネタでしょ」と言う人がいたり、様々な意見を見ました。

 

個人的には、他人を馬鹿にしたり価値を貶めて笑いにすることや、嫌がるものを無理強いして拒否する姿を笑いにすることは大嫌いです。笑えないどころか拒否感を感じます。

前者は、容姿いじりとか特定の人と何かをすることを罰ゲーム化する、とか。後者は暴力、望んでいない企画への参加とかですね。

 

それで楽しめる人たちがいるからこそ、いまだそういうコンテンツが提供されているのだと思います。

日本では。

 

でも、人権がもっと尊重されている国から来た人が日本に来てそういうコンテンツを見たら、不愉快に思うのは確実です。

すでに著名人が来日しバラエティ番組か何かに出た際に、「なんでその方に対して、そんな扱いをするの? それ、面白いの?」と疑問を呈していたのを記憶しています。去年ぐらいに。

まもなくオリンピックで、海外の人がたくさん来た時に、人権に配慮する国から来た人にとって地上波でのこういった扱いは不快感を煽るものでしょう。

 

人によっては、「なんでも欧米文化に合わせればいいというものではない」という人もいるかと思います。

でも、人を傷つけること・人が嫌がることをすることは悪いことだというのは誰もが知っているところだと思います。

ただ、どういうことが人を傷つけ人が嫌がるか、知らなかったり無自覚だったりすることが多いのが日本社会で、こういった行為を日本よりもしっかり認識しているのが欧米社会だと思います。

 

「#Me Too」でも話題になりましたが、欧米ではセクハラは人権侵害であり「やったほうが悪い」「セクハラ傍観者も加害者の一員」という風潮ですが、日本ではそもそも「え? これセクハラ?」と無自覚だったり、「被害者も落ち度があったでしょ」とセクハラに限らない被害者責任論がいまだ根強いです。

「人が嫌がることをした方が悪い」という認識は、ここの事例に当てはまって当然なのに、それを知らない(あるいは自分が無自覚であっても加害者だったことが受け入れがたい)から、日本ではセクハラも被害者責任論も大手を振って存在するのだと思います。

 

なんでも他国に合わせる必要はありません。

ただ、今回の件は、「人を尊重する」という観点で、もっと海外からの指摘や考え方を踏まえて自分たちの考え方を見直してみるきっかけにした方がいいよなぁと感じています。

 

そういう意味では、今議論になってよかったと思います。まだ二年あります。

去年の紅白は、総合司会内村さんの「人を傷つけない笑い」が好評だったそうです。私も安心してみられました。

大みそかに、対照的な形で「笑い」が作られていたように思えます。

「笑い」について、人権について、今回の件でいろんな意見がいろいろな人の目に触れて、考えるきっかけになるといいなぁと思います。

貧困は本人の努力が足りないから?

「自己責任論」派と「それ以外の要因もある」派

 

「それ以外の要因もある」派です。ただ、もちろん本人の責任範囲……というより、努力もないと、残念ながら貧困から抜け出すことは難しいと思っています。

ただ、どこまでが本人の努力で補えて、どこからが難しいのか、それを踏まえない「自己責任論」派を見ることが多い気がするので、自分なりにまとめてみました。

 

本人の努力によるところ

 

いろいろあるかとは思うのですが、本人の努力で一番注力すべきは「情報収集」だと思います(学校などの勉強もここに含みます)。

不要な出費から身を守るのにも、節約するにも、お金を効率的に運用するにも、知識は不可欠です。

それをしないで、無駄な使い方を自覚せずに貧困状態から抜けられない、は、努力が足りないといわれて当然だと思います。

 

また、お金を稼ぐためには、情報や知識は武器です。

資格を取ることが大事ではありません。役立つ知識を自分で得て、役立てるのが目的です。

副次的な効果として、「自分から知識を収集できる人」は「自己研鑽の努力ができる人」であるという評価されます。

 

「お金がなくて情報収集なんてできないよ」という方

 

私は図書館が大好きです。本を乱読するときにはいちいち買っていたら破産します。

図書館は、地域によって蔵書量・種類の格差はありますが、どこの自治体にもたいていあるのではないのでしょうか。

これだったら、時間さえあれば、インターネットにアクセスするのもできない状態の方であっても利用可能です。

 

余談ですが、私は貧困解消の一つには「情報のアクセシビリティの均等」が大事だと思っています。日本ではたいていの人は文字を読んで情報を得られますし、インターネットや図書館などで自分で情報収集ができます。これはある程度、機会の均等があるかと思っています(地方と都市では多少の格差はあると思いますが)。国によってはこれが難しく、貧困から抜け出せない人も多くいると感じています。

 

「そうは言っても情報収集なんてする時間がない」という方は確かに存在する

 

もしかすると「自己責任論」派は、ここをついてくるかもしれませんが、私は「どうしようもない理由で時間がない」という方もいると思っています。

子どものころから時間を惜しんで働かないと生活が成り立たない、シングルペアレントになってしまった、などです。

これはもう、寝る間も惜しんで情報収集しろとは思いませんし、リラックスや余暇の時間が捻出できたら十二分にくつろいでください、と思います。

別の国では、子どもも働かないと家族が食べていかれないから、学校にはやれない、だから教育も受けられず貧困から抜け出せない、という構造が確かに存在しており、その構造は、どこでも発生しうるものだと思います。

 

病気、介護、事故、怪我などの要因で、誰でも貧困になりうる

 

 なにかが起きて自分の体が動かせなくなる、あるいは賃金を得るための労働に割く時間が奪われてしまう、こうして働けなくなる、というのは、本人ではどうしようもないことです。前述の子育てもここに含まれてくると思います。

「子育ては自分で産むことを選んだから自己責任」というのは、本人に責任を押し付けすぎだと思うのです。「子どもは社会の資産である」というのが海外で考えられている価値観です。「子どもは本人(たち)の責任」という考えが少子化の要因であることは無視できません。話がそれるので詳しくは書きませんが、これは「自己責任」ではないと思っています。

 

「貯金を作っておかない方が悪い」「保険に入っておかなかった方が悪い」というのも、苦しい考え方です。

このリスクは、本当に誰でもあります。

働けなくなるのが明日の自分かもしれないと思ったときに、「私は大丈夫」と一切の不安なく言えるでしょうか。

 

今日、外出したら事故に遭って体が動かなくなるかもしれない。

あるいは親が倒れて、自分が介護をしなくてはいけないかもしれない。

 

自分がそうなって、「あ、しんどい」と思った時に、「自己責任!」とはねつけられる社会と、助けを求めやすい社会、どちらで生きたいでしょうか。

 

まとめ

 

 「私はこれだけのことをして貧困から脱した。それができないのは本人が怠けているから」という意見を見るたびに、「頑張ったんだなぁ」と思います。

それが自分を支えてくれて、その経験が今も前に進む原動力になっていることは、本当に素晴らしいと思います。

ただ、自分の励みにすることと、他人にも同じことを強いることは別のことだと思い、ここに意見を書いてみました。

 

……と言いつつ、私自身が、奨学金返済中ですし受験勉強は塾も通わず学校のテキストで乗り切ったタイプで、お金を節約して勉強し図書館で学んだタイプなので、自身の経験談にしがみついて、ここまでの話をしてしまった、という流れなのでした。

強いるようなものではなく、ただで頑張るには情報収集こそ大事だと思います、というイチ意見として表明しておきます。